大館地方は縄文時代から集落が点在し、人々が住みついて生活していたことが、多くの遺跡から想像される.

 大館市全域の遺跡数は126カ所あり、遺跡の中には大館野遺跡(5ha)、花岡城(21ha)、大館城(45ha)、餌釣館(69ha)、 山館上ノ山遺跡(71ha)、萩峠遺跡(81ha)、十二所城(91ha)のような広大な面積を有するものから、100m2 前後の小規模遺跡までさまざまであるが、大規模な遺跡の多くは外観上から城館である.

 この地方は歴史の書に元慶2年(878年)「火内」という名で登場する.

 平安の後期、奥州藤原氏のもと河田氏が代々治めていた. 1189年源頼朝に追われた藤原泰衡を河田次郎が討ったがすぐ頼朝に打首された. 鎌倉時代になり、武士が大館に送り込まれ、甲斐源氏の浅利義遠が治めたという. 南北朝時代には浅利六郎四郎清連が大館地方を治め近隣の国々を攻めた. (北秋田の中世 秋田浅利会のページへ

 15世紀になって南部氏が勢力を伸ばし、大館を攻めたが、檜山の安東氏が鹿角(かづの)まで追い込む.

 16世紀には安東氏のもと甲斐源氏の浅利則頼が独鈷(とっこ)に城を築いてこの地方を治めたが、 安東氏に反抗するようになって戦いが繰り返された.その間難節に二度にわたって占領され、 さらに津軽の侵入などもあって大館地方は秋田・津軽・南部の戦いの場とされつづけてきたのである. やがて安東氏が秋田を治めるが、徳川の時代に入り宍戸(茨城県)に国替えされる.

 秋田藩主は常陸から佐竹義宣がなり、大館は小場義成、十二所は塩谷義綱が城代となる. 後、幕府から一国一城令が出され諸藩は城が一つになったが秋田藩は例外で横手と大館に 城をもつことを許された.小場氏三代には佐竹を名乗り、佐竹西家と呼ばれた. そして260余年代々この地方を治めるのである.

 また、江戸時代の街道として旧羽州街道は福島に始まり米代川(よねしろがわ)沿いに大館に入り 釈迦内(しゃかない)の萩長森から白沢・矢立峠(やたてとうげ)へ向かっている.

 1868年鳥羽伏見に端を発した戊辰戦争で謹皇方についた秋田藩は奥羽の各藩から攻撃を 受けることになる.大館地方は8月9日南部軍によって攻められた.十二所・長木から侵入、 扇田・大館はもとよりほとんどの村が焼失した.9月8日明治に改元されてもなお戦闘は続き、 やがて秋田藩は巻き返したが、この損害は膨大で長い間養われてきた文化や遺産はすべてと いってもいいほど焼きつくされてしまった.その建て直しにこの地方の人々はどれほど難儀 したかはかりしれない.

 明治・大正には火災が襲い、戦後になっても昭和28年から数回にわたる大火により、 まちの中心が焼け、多くの遺産が焼失した.



大館市内の名所・旧蹟
桂城公園(けいじょう)
 「桂」について旧記に「長木川(ながきかわ)一ノ渡に(桂の)大木あり」とあるが詳しくはわからない.
 この公園のある場所が大館城本丸跡である.城の面影を残すものはないが、わずか内堀の 一部と土塁の一部が残っている.
大館城と町割  「大館」の地名のとおりかなり古くから城があったと思われるが、 記録によると城として浅利勝頼が築いたのが最初とされる.
 その後江戸時代になって大館城代になった小場義成によって新たに町割が行われ およそ現在の城下町の形態がつくられた.
 二ノ丸は家臣が住み、三ノ丸は家老級が住んだ.
 今は面影がないが東西は旧電報電話局付近から上町の遍照院のやや東側までで、 南北は桂城公園から市役所までであり、かなり広い範囲であることが伺える.
 城には 虎門・追手門・小中城門・随時門・穴門・上町門があった.城の四周には良風院・伝清院・ 千手院・密蔵院の寺院がおかれ、その外郭部に遍照院・万徳院・持宝院などがあった.
 町割は侍屋敷と町人屋敷とに大別しておこされた.
内町  本藩から派遣された給士は三ノ丸・横町・谷地町・桜町・部垂町・近藤町(今の八幡町付近)・ 古川町・足軽町・下夕町(土手町・仏町・川子町の総称)に居住.
 また大館城代の家士は中城町・ 片町・裏町・向町・上町・金坂町・新金坂町・八幡町・愛宕町に居住した.
外町  本藩の足軽は足軽町(今の常盤木町)、大館佐竹氏の家士の内旧浅利氏の家臣と足軽は独鈷町に 配置された.
 今まで荒町と呼ばれた地域を大町(鍛冶町を含む)と改め、町人町の中心と定めた. 馬町・中町(柳町・大工町を含む)・新町(風呂屋町を含む)に町人を集めてこの地域にいた農民 を強制的に田町・通町・新地・下夕町に移転させた.
大館八幡神社  慶長15年(1610)大館初代城代小場義成(のち三代城代義房から佐竹を名のる)が大館に入城したおり、 常州より遷していた神位を城中に鎮安したとある.
 貞亨4年(1687)に4代義武が今の社地に再建した.
 当時の本宮、若宮二社殿は国の重要文化財に指定、保護保存されている.
宗福寺  大館佐竹の祖義躬が正平16年(1361)に常陸小場に万松山宗福寺を建立したのが始まり.
 慶長元年(1596)に常陸小田に移転、慶長7年(1602)佐竹家の秋田遷封により、寺は檜山に暫居、 後大館に移る.
 この時の寺地は現在の愛宕神社の地であったという.寛永片山村を上野(現在の片山地区) へ移し、現在の所在地へ移す.
戊辰戦争  1868年8月9日雪沢と十二所(じゅうにしょ)方面から侵入した南部軍は8月21日ついに山王岱まで進出した.
 雪沢方面の大館軍も引き上げて南からの攻撃に向けて配置する.翌早朝激しい戦闘になり次第に南部軍が 秋田軍を追い込んでいった.大小の弾丸が撃ち込まれ佐竹大和は城に火を放って二ツ井まで退却した.
 大館町は南部軍の放火により全焼した.やがて佐賀の援兵を得て秋田側の反撃.前山坊沢・岩瀬・餅田・ 片山まで進出.ほかでは板沢・船場口・沼館・有浦方面と一進一退の激戦がおこなわれる.
 9月6日の夜明け前、ついに南部軍は大館城から引き上げたのである.秋田方面は総勢1,100名列隊を組み、 落城してから14日ぶりに大館城に帰ったのである.
 後、扇田・大滝・十二所・猿間・沢尻・三哲・葛原・ 雪沢・大葉岱等各山々で激戦、秋田側が奪還した.
玉林寺  曹洞宗.大永7年(1527)、大館地方領主浅利則頼の創建と伝えられる.
 最初鳳凰山(ほうおうざん)麓 にあったが、後に十狐城下和田山へ移転.
 慶長17年(1612)、現在地に再移転.近世に入り、たびたびの大火で 類焼.昭和6年(1931)に本堂・鐘楼を造営.
遍照院  至徳3年(1386)大館佐竹氏の祖小場義躬が常陸小場に建立.
 慶長7年(1602)佐竹家の秋田移封により 小場の本尊八幡宮のご神体を護持して大館遍照院を興した.
一心院  弘治元年(1555)常陸小場に草創.大壇那小場義実.佐竹氏遷封後の元和3年(1617)に、大館佐竹義成 が現在地に再建.
 明治戊辰戦で焼失し再建された.この墓地に真田幸村の墓がある.大阪落城の後、 豊臣家の再興をはかって全国を行脚したがやがて大館岩神村に住み着き、寛永18年(1641)死亡し、葬られた.
浄応寺  明応年間(1492〜1501)に開墓である釈道願が、本願寺八代門跡蓮如の弟子となって出羽を巡国し、大館 二ツ山に庵を結ぶ.
 浄応寺三代釈玄正が、小場氏大館入国の際、熱弁をふるって旧浅利氏を説得し、 無血入城させた功により、現在地を与えられる.
蓮荘寺  もとは常陸太田南沢にあったが、元和元年(1615)大館に移り、現在地に建立した.
大館神明社  古くから大館の鎮守であり、もとは今の母子寮付近であり、後古神明社、延宝元年(1673)現在の 場所に移った.
部垂八幡社
(へたれ)
 佐竹第14代義人の子、部垂善元を奉る.
 善元は常州で非命にたおれたが、家臣は大館へ下向してこの神社 を建てたという.
ハチ公  大正12年大子内で生まれて東京の上野博士に育てられた.
 渋谷駅に毎日送り迎えして博士亡きあとも駅頭で待ち続け昭和10年3月8日死亡した.
 死の1年程まえ渋谷駅前に渋谷駅前に銅像が建立され大館駅にも死後同じ形の銅像が 立てられた.戦争のため取り壊されたが昭和62年11月多くの人々により再建された.
琴姫竜神  琴姫伝説により建てられたもの.
有浦観音堂  天正年中(1573〜1591)田の中から観音を掘り出してまつったもの. 元文3年(1738)再建した.
水神社  江戸時代羽州街道はこの前を通った. 当時長木川は堤防がなくおよそ3つの流れになっていて仮橋をかついで渡った. いわれは不詳.
役屋跡  大館町の肝煎であり、明治は戸長だった岩沢氏が住んだ柳南亭の跡でもある.
土飛山  中世の館があったが国道7号の開通によって南側は崩され北側の高山豊年稲荷神社のあるところが残っている.
 浅利家臣の片山氏の館・津軽から逃げ延びた南部の大光寺氏が隠れたと伝えられる.
愛宕神社  小場義成の奥方が熱心な愛宕信仰者であったことから建立されたといわれる. イザナミとホムスビノミコトをまつっている.



矢立峠  江戸時代の羽州街道は陣場から下内川の瀬を渡り赤湯沢口から登ってこの矢立峠 を通った.当時は同じ川を何度となく渡ったり、急な斜面が続くなど難所であった と伝えられている.相馬大作が津軽藩主狙撃未遂事件の場として有名になったが、 橋桁付近の岩抜山であるという説もある.付近は矢立温泉・日景温泉・矢立ハイツ などの温泉がある.また、天然秋田杉の樹間を遊歩道が通り、憩いのコースとな っている.この峠を越えた主な事物は下記のとおり.
 菅江真澄(1785)・古川小松軒(1788)・イザベラバード(1878)・明治天皇(1881)
矢立廃寺
(やたて)
 これまでの発掘調査により奥州藤原隆盛の時代に寺があったと推定さ れている.「亀像山補陀寺之X跡」の石碑がある.今後の調査研究が待たれる.
長走風穴高山植物群
(ながばしり・ふうけつ)
 標高わずか186メートルの地に清楚な高山植物が咲きみだれて、真夏でも 冷気が漂う不思議な世界に入り込める.
多茂木神社
(たもぎ)
 昔、神社の大木のホコラに犬が住みついていたが、あるとき雨乞いのためにその 犬を殺して犬神様として祀った.その後も神犬として祀ったが、やがて里の多茂 木神社におろして祀るようになった.
相馬大作史跡  相馬大作、本名は下斗米将真英之進と称した.南部藩江戸藩邸門書宗兵衛の二男 である.20歳の時平山行蔵の門に入り、24才で免許皆伝、故郷福岡(南部藩) ににしきを飾った.
 さて、津軽氏は、元来南部藩の家臣であったが、南部藩内の紛争をよい機会とし て主家に謀し独立した.
 政治力に長じた津軽藩は、逐次石高を増したが、南部藩の世子利用は未だに無官 、常に 津軽の下風に立たざるを得ない.
 これを容認できなかった秀之進は、津軽候狙撃を思い立ったという.文政4年(1821) 4月23日、秀之進は矢立峠(一説には橋桁岩抜山)に潜み、帰国途中の津軽藩主寧親 を待ち受けた.しかし、計画は事前に漏れ寧親は海路をとって難を逃れた.計画が 失敗した秀之進は江戸に上がり、相馬大作と名を変え道場を開いたが、同年10月6日 捕らえられ翌文政5年8月29日伝馬町で処刑され、波乱の生涯を終えた.
長走番所跡
(ながばしり)
 江戸時代大館城代は小繁から東の支配を命じられていた.(南比内<米代川以南>は 十二所の支配)
 当初佐竹氏の領地は日本海側の大間越までであり、津軽氏は矢立峠を越えて白沢まで であったことから、慶長16年(1611)寺ノ沢に番屋を置き通行人を取り調べた.その後、 津軽との領地決定後、寛永8年(1631)に長走に境口御番所が移され、明治2年までその 機能を果たした.
白沢御膳水
(しらさわ)
 明治14年(1881)矢立峠を越えて明治天皇の巡幸があってこの水を飲んだのでこの名が ついている.現在も清水が湧き出ている. 名水大全へ
男神・女神  男神山(340.7m)と女神(281m)の円錐形の美しい山があるが、古くから信仰の山とされてきた. 岐美二柱を祀っていて山そのものが御神体であろうと思われる.
鹿戸野神社  白沢に鹿戸野神社がある.文治5年(1189)兄源頼朝に追われ、藤原泰衡にも攻められエゾ地 へ逃げた義経のあとを追う途中、この地の槻の木のほら穴に、髪の中に隠してあった一寸 八分の観音像と秘巻を収めた.その後、里人が発見し、これをご神体として祀ったのが起こり と言われている.
 併せてこの神社の道筋が鎌倉道であろうと思われ天下道ともいう.
鳥潟会館  元京都帝国大学名誉教授(日本外科会会長)鳥潟隆三郎博士の生家で、無線電話の発明で世界的に 注目された工学博士鳥潟右一、それに欧州において(慶応〜明治)奇術・軽業興業で有名な鳥潟小 三吉の関係する家である.
 建物は300年余の歴史を持つ旧家で、昭和11年から約5年の歳月を要して、延べ1000人を越える京都の 大工、左官等の手によって、その一部の補修と増築をしたものである.
 また、庭造りも京都から造園しを招き、利用された石は、京都の鞍馬石を運ぶなど、京風の情緒豊か な庭園として、建物とともに県内は勿論、有数の文化資産といわれている.
 敷地面積は8,191.08m2(2,478坪)、建物面積は木造一部2階建て791m 2(240坪)に大広間(和室4室42畳)、和室(17畳、10畳、8畳、6畳)、その他 (庭園、東屋、茶室、土蔵、物置)の建物がある.



北鹿ハリスト正教会聖堂
(ほくろく)
 ハリスト正教は安政治6年(1859)に来日したニコライ大主教によって日本に広められた. この地にハリスト正教を伝導した人は東京本会から来たアレキセイ山中であった.
 明治10年頃よりイォアン畠山一之助の居住を仮所に伝教に当たっていた.
 この建物は、曲田(まがた)福音聖堂として明治25年7月31日に竣功し成聖式が行われた. 大工は東京のニコライ堂と同じシメオン貫堂と伝えられている.
 その後、昭和29年には土台廻りと屋根を修復、昭和35年には内装にペイントが塗られ、 また、昭和62年にも改装している.
 昭和41年3月22日に秋田県指定重要文化財になっている.建物の外観はきわめて素朴で あるが、内部聖所は四方をアーチとして、ドームを架けるビザンチン様式の木造かが 見られる.明治時代擬洋風建築として文化史的な価値がある.
北鹿ハリスト正教会曲田生神女福音堂のサイトへ
錦神社  藤原泰衡が「にえの柵」で家臣河田次郎に殺され、死体は錦の直垂に大事に埋葬、 この墓がにしき様と呼ばれた.
十二所城跡
(じゅうにしょ)
 戦国時代(1500年代)浅利氏の配下の十二所信濃が利用したのではないかと推測されて いるが確証に乏しい.
 十二所町の南側、真山岱(標高200〜300m)と呼ばれる広大な台地上にある.城館は その侵食谷を堀として、孤立した高台を郭に築いている.その中心となる郭はT郭 (溜池)U郭(空堀)V殻(畑・牧草地)からなっている.
 現在は、本部西側の空堀後がわずかにその名を残しているだけである.
別所大日堂
(べっしょ)
 別所大日堂の創立はずいぶん古く、言い伝えによると神亀5年(728年)聖武天皇のころと 言われている.聖武天皇の御世に行基菩薩が当地方に下向して、一本の木から三体の 阿弥陀仏を刻みだし元のものを八幡平村、中のものが別所、末のものが独鈷(とっこ) に御神体と祀ったのが始まりという.
成章書院
(せいしょう)
 創立は寛政5年(1793)で御郷校とよばれていたが寛政10年7月、正式に「成章書院」と名づけられた. 元治元年(1864)石井祚景の寄付により、元成小跡に新武芸練習所と書庫が増築された.
三哲神社
(さんてつ)
 本名千葉秀胤、三哲(文学、武芸、医術は抜群)と称された彼の死後、えぞ森(三哲山)に葬ったのである. その後、数年 たって三哲神社として祀われた.
 今の社殿は昭和17年8月に完成し今日に至っている.
老犬神社  この神社は、大館市葛原(くずはら)の山腹にあり、社殿は昭和11年8月18日未明の火災で焼失し、その後 改築して現在に至っている.
 その昔、鹿角市(かずのし)大湯に代々定六というマタギが居り、先祖の功によって領から天下御免の狩猟 免状が与えられていた.
 定六はシロという飼い犬がいて狩猟のよき協力者であった.ある寒い冬の事、カモシカを追い獲物を見失っ てしまった.帰路につこうとした時に数人の男に取り囲まれ投獄されてしまった.この日に限って狩猟免状 を忘れてしまったのである.
 定六は判るはずのないシロに繰り返し語りかけたところ、まもなくシロは暗闇の中に消えていった.家にた どりついたシロは必死に訴えた.しかし、定六の妻にはシロの訴えがわからなかった.シロは再び吹雪きの 中、三戸(さんのへ)へ引き返したが、頼みの巻き物はなく、定六は我が子に話しかけるように必死に訴え た.シロは再び家に戻った.定六の妻は巻き物をシロの首に結び夫の無事を祈った.そのころ、定六は刑場 に引き出されシロが駆け戻ったときには、定六の亡骸のみが無惨に横たわっていた.シロは十二所葛原部落 でなくなり、その供養をしようと山腹に神社を建立し、現在もシロへの愛情を守り続けている.



安藤昌益の墓  安藤昌益は江戸時代中期の思想家で、封建制を否定した最初の人物として有名である.
 宝歴12年(1762)二井田(にいだ)村にて死亡.稿本に「自然真営道」刊本「自然真営道」 「統道真伝」がある.
小林多喜二の碑  明治36年(1903)10月13日に、父末松、母セキの二男として生れた.
 家は貧しい自作農兼小作であった.
 4歳のとき(1907)の12月下旬、伯父慶義に呼ばれて、一家を挙げて北海道小樽へ移住した.両親は、 伯父の経営していた三星パン店の支店を開いた.
 生活は苦しかったが、伯父の援助で、小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)を卒業、(大正13年 <1924>)、北海道拓殖銀行に勤めた.
 昭和4年(1929)代表作「蟹工船」を完成.しかし、左翼運動の為銀行を解雇され昭和5年3月に上京した.
 以後、プロレタリア作家同盟の有力なメンバーとして活躍.昭和7年春頃より、弾圧を逃れて地下生活に 入ったが、昭和8年(1933)2月20日、街頭で連絡中逮捕され、築地署で激しい拷問を受け死亡した.
 昭和32年(1957)6月、下川沿(しもかわぞい)駅構内に江口換氏の筆による「小林多喜二誕生の地」 の石碑を川口の故佐藤栄治氏建立.
出川の欅
(いでがわのけやき)
 今から1000年以上(平安時代)昔、小松源七という人が植えたもので、板沢の八万時んじゃの欅と板小石沢 の山神社の欅とは兄弟木であるといわれている.この欅は、出川地区の入り口に高く聳え立ちで側の象徴 であると同時に、出川を守護する霊力を備え持つ霊木であると信じられ、毎年4月8日に祭礼を行っている.
 また、この木は、乳の出ない産婦がお祈りをすると乳がでるようになる「おっぱいの神様」としても信じ られてきた.


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